昭和49年08月14日 朝の御理解



 御理解 第9節
 「天地金の神は宗旨嫌いをせぬ、信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ、世界を広う考えておれ、世界は和賀心にあるぞ。」

 心の世界と言う事を申します、心の世界それぞれに心の世界を持っておる。結局心の狭い、小さい人は心の世界が小さい狭いと、だからそれこそ広い大きい心を持つと言う事、そこで銘々の信心を思うて見る、自分の心の状態を思うて見る時に、自分の心の世界が分かる。自分の心の世界が只自分一身一家に置いておる人、心の世界を言うなら地球全体の上に置いておる人。結局自分の今の内容と言うものを思うて見ると心の世界が分かる。これはもう果てしない事ですけれども。
 お互いの心の状態と言うものが、こう開けて来ると言うか育って来ると言う事、これはもう自分も不思議な位。私つい十年位い前までは皆さんに、天下国家の事を祈れとか、世界総氏子の事を願うとか、世界真の平和を祈るとか、又は日本中の事を願えとか、教団全体の事を願えとか、又天皇陛下を始め皇室の御繁栄又は教団の発展、金光家ご一門の真の例えば、繁盛と言う様なものを祈らねばならんと、私共は教えられて来ておった。それでんもう、それこそ世界中の事を、いわば願う訳。
 皆さんも例えば拝詞なんかを、拝詞が出けまして20年余りでしょうか、あの拝詞が出けて以来と言うものは言うならば、言葉には毎日祈りの言葉として世界真の平和、世界総氏子の身の上安全を、まぁ願っておられると言うよりも、言うておられると言う事、唱えておられる、唱えると言う事では無い言っておられるだけと、だからそう言う空の様なネ、祈りでは神様には通わないのだ、だから一番実感的な一番自分が今願わなければ居れない事を繰返し、繰返し願えと私は十年位前迄は皆さんに申して参りました。
 私は信心はやっぱり、だから、そうだったと思うのです。痛いなら痛い痒いなら痒い、自分の家の中に心配があるなら、その事自分の周辺の本当に願わなければ居れない事、その事を祈りの中に繰返し繰返し願え、実感でなからなければ神様には通わない。通じないと、それで御かげを受けて参りました、それがです願わなければならんじゃなくて、願わずには居れなく段々なって来た、勿論天下国家の事本当に世界中のこと、願わずには居られなくなってきた。
 それこそまぁ最近私の祈りは、霊様の世界の事までも、祈らなければ居られない。これは私の実感です。昨日、昨日の晩です、昨日、一昨日、昨日の晩、丁度十二時ちょっと前位だったでしょうか、枕元にテレビが有りますから、ちょっとあれをまぁ明るくしようと思ってチョッと引いたら、まァだその深夜のあれが有っておりました、それは大東亜戦争の二次大東亜戦争実録、大東亜戦争と言う何かのこう実録ニュ-スをですか、集めたもので有った。
 硫黄島サイパン島、それから沖縄の激戦、もゥ何処も此処もが玉砕、と言う事は敵味方ともに、沢山の戦死者が出た。それがもゥ画面に、しかもカラーで、こゥ寝ながら見とりましたけれども、とうとう起きて座り直して、もゥそれこそ、拝ませて頂いた様な感じで観せて頂いた。本当にこう言う悲惨な戦争と言うものは、又と二度と繰り返えされては為らないと言う事を身に切実に感じます。もゥ本当な意味で世界真の平和を祈らなければ居られないネ、沖縄当りでは中学生が切り込み隊に入っておられる。
 中学生男の中学生、それから女の中学生は看護婦の御用をすると言った様なネ、それも皆で、兎に角火炎放射機でやられるとです。焼き殺されるとですから、皆さんもご覧になったかも知れませんけれども、あの様子を見ておって、とてもとても又も二度とこう言う悲惨な事が起きる様な事が有ってはならない。本当にあぁして皆もう戦死して、死体が累々としてもう転がっておるんですよね、うつ伏せになって居る人、仰向けになって、そのまま息絶えておる人。 
 ほんとに私そん時にほんとに思いましてから、あぁ言う例えば死に方をした時にです、本当にまァ冷たぁいお水の一杯を、いわば末期の水でも与えられたら、その本とにあの有難かっただろうと、こう思わせて頂いた。私は何時も枕元にいつも冷たい氷水を置いておりますから、本とにあの水一杯すらも与えられない、そのサイパン島での、あの在ってましたですよ、この水溜りん所が日本兵が命がけで毎日水を汲みに来る所だと言う様な、水を汲みに来るんです。
 それがやられてる、けども水は本当に必要ですから、命がけでなら決死隊を募ってその、まああの汲みに来る訳なんです。私はとうとうその映画を見終わってから、又この紋付袴を付けて、それであのゥ丁度やって参りました。それから大きな丼に、夕べもお供えさして頂きましたけれども、もゥ冷たぁいお水を、あの時の戦傷された、これは日本兵だけではない、アメリカの兵隊さんに対してでも、日本の戦死者に対してでもです、水を丼一杯ですけれどもネ、これは私は私の思いの圏内の霊様がそれでありありと信じました、ですから、これはあの一ヶ月間、そう言う霊様への。
 言うならば供養と言うか、あの冷たい氷水の御供えをさして頂こうと、昨日でだから二日目のお水を、あすこに御供えさして貰いました。これはもう言うならば実感なんです。私のですから、そう言う心を天地の親、天地金の神天地金の神は、宗旨嫌いはせぬとおっしゃった、はぁ日本兵だけとか、アメリカだとかどうこうじゃ無い、日本の関係ある者だけじゃ無い大東亜戦争で、例えばあの様な死に方をなさった方たちに対する、霊に対する処の思いをです。
 それを実感を持って、そう言う風に思えて来る様になったと言う事がです信心が段々言うならば、大きく偉大にになって来たと言う事になるのです。昨日このここの指出の久保山さんが御祈念中に御神前で、もうあらゆるその花がいっぱい、あのいわゆるお供えがしてある所を頂かれた。霊神様の前では又、その花がその頂かれたと言うてお届けをして居られますから、昨日久保山さんに申しました、それは昨夜こんな事であった。
 私はそのまま、あのあくる日のお水を御供えさして頂いたら、その只お水一杯の、只お水一杯なんですけれども、それは言うならば、世界の言うならば霊様達が潤う程しのものになっておる。そう言う、例えば、心掛けを持つ事を天地の親神様がお喜び下さった。「しるし」を久保山さんが拝みなさったのでしょう、又は霊様達の喜びを、その花に、例えて見せなさったのだろうと。
 ほうそんならそげんして親神様が喜びなさるなら、今夜から家の霊様にもいっちょ大きな丼で御供えしよう、こげなつまらんとですよ、ですから皆さんが日々の拝詞の中に天下国家の事を願わして貰う、言うならば祈りの言葉の中に在ります様にです、世界真の平和、総氏子の身の上安全を、例えば言わんならんから言うて居ると、唱えんならんから唱えて居ると言うのでは、私は世界が和賀心になると言う事では無いと思うです。
 合楽の私の場合はもう、兎に角実感派ですから、私はですからなら私の信心が、その程度の時はです、兎に角自分の実感、そのものを願えと、決して日本中の事を願わんでも、はぁ天皇陛下、皇后陛下のご無事、ご安泰をお願いをして居ると言うてから、天長節にでも国旗を揚げるとを忘れる位な事では、拝む資格は無いと、私は言う来たんです唱えてさえ居れば良い、御供えさえすれば良いと言うのじゃ無い。
 はぁたった丼一杯の氷水を御供えすると言うのは、その様に天地金の神様に響いて、喜ばれるなら、霊様も、それだけ潤われるなら、なら今夜から自分もそれを実行しようと言うて、それでは世界が和賀心になると言う信心じゃあ無いそこでです、例えて言うならば、なんと無駄な事を申しますならばです、自分の身近な親とか、兄弟とかの霊様にです、自分が冷たいお水を頂いた、はぁおいしかったと思うたら、霊様にも御供えさして貰うならネ、はァこのぼた餅は美味しかった。
 そしたらばお婆さんの霊様に、お爺さんが甘い物が好きだったから、辛い物が好きだったからと言うて御供えするならばです、実感ですから必ず通う、そう言う通う事がです、神様のお喜びにつながる様な思いが段々出けて来る様になると言う事、信心とは親が子を思うたり、子が親を思うたりと言う事は、もう普通なんですけれども、それすらも、実行でけてない人が沢山有りましょうけれども、これは皆さんの実感をです、そのまま霊様なら霊様に御供えさせてと言う様な事は必ず霊様に通います。
 その思いがだんだん大きくなって来る、その大きくなって来る事を天地金の神様は喜んで下さる。勿論だから宗旨嫌いなんか出来る筈がありません。何何宗だから、何ゝ教だからと言う事は無いです。天地金の神様から御覧になれば、もう一指同仁なんです。キリストも釈迦もやっぱり天地金の神様の、いわば氏子なのです私共の心の世界を、広げて行かなければいけません。昨日は期せずして、夕方来た ? 宮崎、宮崎県から四通手紙が参りました。
 昨日昼は丁度十三日会の時にその事を皆さんに聞いて頂いたんですけれども、延岡、宮崎市、大淀 ? 「おかげの泉」で御かげを頂いて、あの居りますのです、昨日ここで皆さんに聞いて頂いた、今ここで修行しよります田中さんと言う人のお母さんから、昨日昼来ておった、だから一日前にお届けをしてあった、何人もの方達がもゥ見事に御かげを頂いておった、お礼の手紙が来ておった、夕べ、夕べちは、夕べ手紙が来たんですけれども、えー本当にそのう何ちゅうですかね。
 御かげの最近の現れ方の見事さと言うかね、成る程神様が、いわゆる今迄は下から上に水を流す様に難しかったけれども、もうこれからは神が道を開くと仰るですから、言うなら他力の信心にならせて頂いたのですから、それこそ上から下へ水をながす様になりました、そらもう本とに私は昨日、お届けをお礼申させて頂いただけでも、ほんな事そんな事が出けたり、有ったりするじゃろうかと言う様な御かげを受けとるです。そらもう本当にもう驚きますね。
 その中に七十二歳とかのお婆さんが、いかしとられます、手紙の中にその方はもう六十年近く信心して居られるが合楽に御神縁を頂いて「おかげの泉」を読ませて頂く様になってから、自分の心の変わって行く様子をもう、それこそ当て字ばかりで書いて有りますから、それを仮名で解いて私は読ませて頂いたんですけれども、少しここん所高徳な御先生の御ひかりを延岡に宮崎まで輝かせて頂きまして、不徳な私達は「おかげの泉」のご本を繰り返し、繰り返し読ませて頂きまして信心の稽古をさせて頂いて居ります。
 信心が長いばかりで、自分中心の信心で神様のお心も解らず、勝手信心で相済まない事ばかりで御座いましたが「おかげの泉」のご本を読まして頂き少しずつでも信心の成長の御かげを頂かねばと毎日毎日読み返し、読み返し信心の稽古をさせて頂いて居ります、今まで、今日では悩みも、不足もなく毎日が有難い一杯で御座います。これは「おかげの泉」によっての信心によってです。
 後に書いて居りますが、ちょっとややこしいですから、ここ説明しますとです、自分の御かげを頂いて居る所の教会長先生が御本部参拝しなさらなければならない事になった。ところが旅費が無いから困ると言われるのを聞いておってから、その先生の旅費の御かげを頂きました。先生も喜ばれ、先生御本部にお届けをされると、先生の分と私の分と二つ、御神米が下がって参りまして、恐れ入ったと言う事が書いて御座います。今迄は只ほんとに自分の事ばかりを何十年間願う事がしてあった。
 それで子供もついて来ない、又願った御かげは頂いてもです、心の中に安心とか、心配と言うものは絶えなかった。それが言うならば、自分の信心を少し大きくして行った、言うならば、教会中心になって来た。そしたらこの様に自分の心の中に安らぎが生まれて来た。そして教会を中心にの、信心がこんな御かげを頂くものかと言う事が解りました、と言う様な事を書いてあります。七十年間只教えを頂いてもその教えを身に付いていなかった。「おかげの泉」によってです。
 信心とはこう言う生き方に為らなきゃならないと言う事が解った。おかげで言うならば、祈りの中心と言うものがだんだん大きくなって来たと言う事なんです。教会中心になっただけでも、その様に御かげを頂くのですけれども、こん中に息子が信心の無い息子さんが大変御かげ頂いて居る事が書いてあります。非常にややこしい事ですから申せません、けれどもネ、お互いに信心を一つだんだん、いわゆる心の世界と言うものを広げて行かなければならない。
 只言葉で言うだけなら、それこそ、世界の事も天下国家の事も言えるんですけれど、それが実感としてです、思うたり言うたりする様に、言わん所に神様に口上するのですから、その願いが育って行くに従って神様のお喜びを見せて下さらない筈がない。それが霊様であるならばネ、霊様にも潤うて行く様な御かげになって来ると言う事になります、先日ヱー全教一新、全教一家と言う事を教主の三代金光様がおっしゃっておられました、これはもゥ教団に掛ける願いの中心が私はいつも同じ。
 それをあの先日、全教一新と言う事を全宗教一新して全教一家の実を上げねばならんと言う事を頂いたんです。全教と言う事は私にとっては金光教が一つの一家の様にならなければならない、ここは甘木関係じゃ、ここは久留米関係だ、ここは合楽自身だと言った様な事ではなくて、いわゆる全教が一家の様な大きな輪を持って信心しなければならないネ、と言う事を言っておられる訳ですけれども、私はその全教一家と言う事をです、これはもゥ以前から皆さんに申して居ります様に全教。
 言うならば世界にあらゆる宗教がある、それで人がいわば、助かって行っておると言う宗教が有る、そう言う、いうならば宗教が一新して何々宗が駄目だ、何々教がいいと言う様な事ではなくて、言うならば人の難儀が助けられる程しの宗教やら教えを持っておる宗教が一新して行って、一丸になってその宗教が全部一家の様になって、皆の世界の難儀に当らなければならない、と言う風に私は申しております、だから○○教の人が必ず金光教にならなければならん、と言った様な事ではない。
 そこん処を宗旨嫌いをせんと、教えて居られます。天地金の神は宗旨嫌いをせん、信心は心を狭う持ってはならん。三代金光様はここん中にも、そう言う意味が加えなさったんだと思われます。全宗教が一新して全教が一家の実を上げると言う事は世界の難儀に取組ませて頂くと言う事。世界国家とは一体、全体と言う事である、全体は一体であり、一体は全体である。そう言う理想世界をです、私共の願いの焦点とさせて頂かなければならない。私共だけが幸せになれば良いのではない。
 日本がだけが経済が、豊かになったと言うだけではない。全世界の人達が豊かになって行かなければならない。それを心から願えれる信心が尊いのです。そんなら教会のをと言うのじゃいかんのです。信心を進めて行っている中にです、何時の間にか私の信心がですネ、その事が実感として願われなければ、居れない事になって参りました様に、皆さんの心の世界を段々広げて、今、合楽で合楽示現と言う事が言われて居ります。示し現すと言う事なんです。
 合楽をいよいよだから、為には先ず合楽を頂かなければなりません。教会中心にならなければなりません。それを現して行くのです。その事を昨日、私は皆さんに ? 時に聞いて頂いておりました、から合楽示現と言う事を示し現すと書いてある。それを文男先生が大きな辞引きを持って来てから辞引きを引きよりましたが、その辞引きには、こゥ言う事が書いてあります。私はそれを聞いて、神様から頂く事が如何に素晴らしい事かと言う事を改めて、又認識させて頂いた様な事でした。
 あぁ示現と言う事の意味、私は「合楽し現」と言う風に示しと言う、し現と頂いたから、し現と言いよりましたけれども、あれは「じげん」と読むべきだと、合楽示現活動、運動と言う事になる訳ですネ、示現の意味は、「神仏などが不思議な霊験を現し示す、示し現す事だと書いてあるんです。私はもうこれを頂いてから驚いてしまいました。まぁ言うならば大坪総一郎が一生懸命に合楽示現。
 合楽を現さなきゃあならないと言う事を言って居るのでは無い、神様が現さにゃきゃあならんと言うて御座るのだと、言う事が解るでしょうが、私は無学ですから、そう言う難しい言葉も第一知りもしませんし、大体示現なんて言うのが辞引きに有るだろうかと思って居りました。ところが事実やっぱり有るんです、私が頂いて居ったとおりの字が示現と書いて有るんですネ、それが、その意味が「神仏が、不思議な霊験を示し現す事だと、この意味が書いてあります。
 だからこの事の運動に、例えば参画すると言うか、そう言う本当に、合楽示現の、いわば運動に参画させて貰うと言うか、そう言う事は、それだけ皆さんの信心が偉大になった。大きくなった。言うなら神様の本当の手足にならせて頂くと言う事が解ります、いよいよ、合楽示現の活動に入って居ります、そう言う運動がいよいよ合楽、打って一丸になって、そう言う運動が展開されて行く事でしょう。
 それは私が思い着いたとか思い立ったと言うのでは無くて神様が思い立たれたのだと言う事が解らせて貰う、又はそれを信じての御用になって来なければいけません。心を狭う持ってはならぬ。もう人ん事だと言う事では無くて、本当に今の世界の難儀を、もう一つ、私は素晴らしい事だと思った事は、昨日からSOSの地球かなんか言うのが西日本に何か連載されておると言うんです、いわゆる科学者の方が地球の危機を、言うならば叫んで居られるのが現象に成っておるものだと思うのです。
 そこで若先生が切抜いて持って来て居りました、切抜きの中に私がここ一週間ばかり言うて居る事がそのまま載っておったから、びっくりしました、私は今地球の危機と言う事がです、どう言う事かと言うと、先ず第一に食糧の問題、それから人口の問題、それから公害の問題、それから資源の問題、この四つをやっぱし地球の、それを証拠にしてその記事が載っておったと言う、言葉も同じでした、皆さんも暇な方は切取ったでしょう、西日本を読んで居られる方は見て下さい。
 恐らく毎日私が今、言っておる事が、その地球危機と言う様な事が克明に発表される事でしょうけれどもです、言うならば神様が一足先にです、地球の危機なら地球の危機を叫んでおられる、お気付け下さってあるんだと言う事です。昨日も私御理解の中に申しました様に、もう火の手が上がって、例えば半鐘を鳴らしても、もゥ遅かち警鐘乱打と言う言葉が有りますネ、それこそ神様が火の手の上がる前、今ならまだ間に合うと言うて今の合楽で一日の御理解は警鐘乱打です。
 人間がここん所に目覚めて呉れ、ここん所を解ってくれ、そして合う楽で解った者だけでも、この解った事を地球に、いよいよ広げて行って呉れ、世界中に広まって行く様な御かげを受けてくれよと言うのが神様の願い警鐘乱打です。今ならまだ間に合うと言う事ですからですから、まそう言う願いを合楽の全体の方はもう、余儀なく願わなならんです。もゥ運動に参加されなければならないと言う所まで行っておる。
 ですからそう言う御かげを受けると言う事がです。世界の難儀を、例えば本当に実感する。だからこれはじっとしては居れんぞと言う様な働きが生まれて来なければいけない、それこそ今のこのおばさんじゃ無いですけれども、五十年も信心しておるけれども、只身勝手信心、自分の事ばァっかり言うとる。それをです神様に御かげを頂いても喜んで頂く様な御かげにはならんのです。
 それを欲の事ばっかり願いよんなら、自分の事は、それこそ大は小を兼ねると言う事があります。例えばなら合楽なら合楽の村中の事を一生懸命願うなら。合楽の人ならば、それが合楽の村中の繁盛を願うならば、この中に自分の家も入っておるんですから、しかもそれが神様に喜んで頂く事であるのならばネ、喜んで頂いて御かげを頂くと言うのでなからなければ本当の事では無い。
 世界を広う考えておれ、世界は和賀心に有る。これは教祖様だけの事では無い。私共の心の中にそれこそ世界中の事が、不安になり、心配にになり、だからその度に修行させて貰う、その度にしっかり祈らして貰わなければならないと言う位な、しかも私が昨日の晩から霊様に氷水の御供えをさせて頂いて居る様に、これは実感なのです。その様な事に段々なって来る御かげを頂く。それが信心が成長して行く事だと言う風に思います。
   どうぞ。